追悼・広兼主生氏

     労働者階級解放の鬼だった

                   松江 澄   

労働運動研究 1995.3 No.305

 

 広兼はついに逝った。ついに、というのは理由がある。彼は悪性腫瘍を除去して胃をつり上げて食道の代わりにされ、そうでなくても小食な彼はますます食が細くなり、術後五年近くを通じてやせ細り、ときに入院をくり返して点滴などで栄養を補いながら一年また一年と生きつづけてきたのだった。それでも私たちは術後五年経てば、という素人の楽観に期待していたがついに逝ったのだった。医師で実兄の話によれば手術の余後はあまり良くないと担当医師は語っていたらしい。だから体重は常に三五キロ前後で体力はおとろえる一方だった。

 足かけ五年前の七月末、アルマ・アタの核実験禁止国際会議からの私の帰りを待ち切れず入院したという彼をすぐ病院にたずね、意外に元気な顔を見て安心したのだった。やがて手術も成功ときいて一日も早い回復を期待したのだった。→年も経った頃、彼の希望もあって退院後は通院の帰り道に一月に一回は時に病院で、または彼の家で、またときには喫茶店で、必ず会って話すのが習慣となった。

 この間彼の問う課題は、「社会主義とは何であったのか」「社会主義はもはや私たちの目標ではなくなったのか」「ほんとうの社会主義とは」「私たちの進むべき道は」と、矢継ぎ早だった。彼の真剣な追求は私の模索を加速した。会うたびに殆ど私が話しながら彼のつかれを気づかった。 時間が限度だった。

 もう一つ彼との交わりのきずなはCDの音楽だった。クラシックは苦手だった彼に、本が長く読めぬ代わりに一○枚から二〇枚、やがて三〇枚、五〇枚と静かな室内楽を選んで送った。

彼は次第に好きになり、何より心が安まると喜んでくれた。彼との間に想像もしなかった音楽の交わりが生れたのだった。

 しかしもちろん彼が何より望んだことは再び運動に復帰することだった。とくに昨年暮れから、「五年目になる今年の八月には元気になって事務所に還る」と、会うたびに私に話した。彼は十二月になって二十七日にひらく党の忘年会に一寸だけでも出席して皆の顔が見たいと言い出した。それは病気になって以来はじめてのことだった。私は言いつのる彼をさとすようにそれをとどめた。

 当日私がその報告をして会が始まってまもなく、広兼が奥さんとタクシーで来て一人で姿を現わした。私は思わず狼狽した。彼は挨拶しようとし、胸がいっぱいになって言葉にならず、皆の話をききながら私と同じ椀の湯豆腐を少しつついただけで、二〇分後には名残り惜しそうに奥さんとともにタクシーで帰っていった。彼が亡くなったのはその日から二六日目だった。神を信じぬ私もあまりにも不思議なこの符合におどろいた。

 ふり返れば私が彼と出合ったのは日鋼争議(→九四九年)の直後だった。一○代で海軍の飛行機特攻隊を志願して一九歳で敗戦、広島駅前の闇市で白いマフラーをなびかせながらカッ歩したらしいが、やがて国鉄に入り、かって広島工業に学んだことで、「通信」に勤務しつつ労働組合運動に参加し、国労広島の拠点第二支部で頭角をあらわした。やがて共産党に入党し国鉄細胞を創り上げる中心的な活動家となった。

 私と知り合った最初の大闘争が、あいつぐ処分で「長期低姿勢論」に逃げ込もうとする当時の「民同」に抗して闘った一九五七年の第二支部車掌区闘争だった。当時県委員会の労対部を担当していた私は上京中の内藤さんと連絡し、広兼君たちと協議して細胞が中心となって下から職場の大衆的な闘争を組織して列車を止める大闘争に発展した。この闘いは松山大会後の新潟闘争―グループによる上からの組合指令による大闘争―と比較され、党内外の論議の的となった。

 彼はその後も闘いつづけて首を切られ、すでに年を重ねていた久保田さんに代って県委員会の書記長となり、八○年代のきびしい党の分岐の中で広島の党を支えて一〇余年、献身的に党の再建のために全てをささげた。また彼はその後全国委員に選出され党の発展のために寄与した。彼は若い頃の戦争への「献身」から深く省みて転進し、労働者階級の鬼となってその解放のために献身した。

 広兼君、君がいなかったら私は責任者としての任務を果たし得なかっただろう。君あっての党だった。私たちは君の目標を胸に抱いて今後も闘う。主ちゃん安らかに眠れ。(二月七日夜)

 
表紙へ